宇佐永弘文書調査

一九八六年九月七日から一三日まで、大分県宇佐市高森の県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館に赴き、同市南宇佐桐井・永弘氏一氏所蔵の「永弘文書」の撮影を、前年度(『所報』二一号、一一〇頁参照)からの継続で実施した。今回は、『大分県史料』所収分のうち一〇四一〜一〇九二号文書を撮影して『県史料』所収分の撮影を完了し、ついで『県史料』未収分のうち中世文書七三〇通余(「イロハ……」の袋、「連結分」、ラベルなし)を撮影した。これで同文書の中世史料はすべて終了し、「52」袋と「ヱ補任状」の袋に納める近世文書約一〇〇通を残すのみとなった。またこれとあわせて、一九六二年に撮影された『県史料』一〜四四二号文書(平安〜南北朝)の再撮影を行なった。前回撮影後に裏打が施されて読みやすくなっているためである。
 この作業によって、『県史料』所収分で未確認だった文書数通が、「イロハ……」の袋中より見出された。すなわち、七二七(ヲ45号)・九九六(レ73号)・一一六二(ユ47号)・一五八八(ク67号)・一七二三(ク55号)・一八五二(マ34号)・二〇三〇(ナ53号)・二〇八三(テ103号)である。なお帰京後、今回までに撮影したすべての写真と『県史料』を照合したところ、『県史料』にあって現在所在が確認できない文書は、三一(ワ2号)・四四七(フ6号)後半・四五一(ト7号)後半・五七三の五(オ23の5号=ヤ17号)・八六三(レ106号)の五通に絞られた。ただし三一は一九六二年撮影の写真には写っている。
 本来ならばここで『県史料』未収文書の一点ごとの目録を作成すべきであるが、この文書群はほとんどすべて無年号で、多くが前欠・後欠・断簡であるうえ、損傷のひどいものが少くない。様式からいえば多くが書状であり、差出人の特定できないものがきわめて多い。したがって普通の形式の一点目録はほとんど意味がなく、ある程度書状の内容にわたる紹介をせざるを得ない。むろん七〇〇通を一挙に紹介することは不可能なので、ここでは「イロハ……」の袋のなかから接続する文書を抽きだしてある「連結分」の袋に収める文書のうち、いくつかを飜刻するに留めたい。いずれも難読の文書で、もとより完全なものではない。
 なお調査の全般にわたって、風土記の丘資料館の海老澤衷氏と美基夫人、宮崎大学山田渉氏、青山学院大学藤原良章氏、および本所所員(当時)新田英治氏の御協力を賜わった。また文書の解読については本所所員小泉恵子の協力を得た。
(1) 沙弥某書状(ヘ103=ケ82)
(ヘ103)「ましく候
 一 牛丸已下名〓下地中分事尤下向以前有其沙汰候歟山原左衛門尉殿去年及沙汰をもて思ゝに候何とか候ハんすらん懸入下向相含たてまつりて申談可致沙汰候歟候らん
 一 彼所名主百姓〓これをハあらんものに思申候らん事存外に候神領惣御意御(?)(?)をいやしみにてハ下地おハ令興行にハ何とも□真(?)(?)あとなくおほゑ候かた〓可被御(?)安事にて候ハんする物を手にてかゆる者也
 一 角田在(家)計ハはやかけるやらん弁分惣検校社家よりゆいそニまかせ拝領候了しかれともかきりある社役神用〓ハけたいなんしゆあるへからす候間在(家)計も用いぬ事候ハゝ門別用途も弁まへ必〓候ハんすらん
 一 七郎兵衛不調人にて候ける人のさけたる心ニても候ハす向後不可近付候
 一 當時下毛定使末代本司事兄本司上毛も下毛押取られて候よし歎申候間下□□申行て候へハ牛丸名内一松神主作分□てんさつをあけ用途二三百文取ゆるして候□□不當ニ候間如元兄本司ニ可申充候(?)   」
(ケ82)「一 孫左衛門殿去年□□様ニ□□□あるましく候さも候ハゝ大〓なる勝事可出来候か御物語あるへく候
 一 今田(?)(?)他家家人作にて候なる□まものにて細〓ようにもたつましき□にて候なる左様候ハゝ此後下地なとはなすへく候
 一 在家計用途出来候ハゝ(?)をハ未□可有御勘渡十結許候ハゝ二結許跡(?)ニも□に又みハ紙御ゑほハしをもとの人ニきう□させ給て候合使もとくふんせんとそ候ハんすらん其心をやふり候てハ我ためあしかるへく候其様ヲよく〓可御心得候又神人〓もゑほしき候ハんとにや候ハんすらん公物粮ニしたかいて可有御計候け(?)にたてさせ給へく候

『東京大学史料編纂所報』第22号